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アドルフ・ヒトラー
1889〜1945
国家社会主義ドイツ労働者党党首
1933年ドイツ首相を経て、総統。
第2次欧州大戦に枢軸国として参戦、45年4月30日
帝都ベルリンにて自決。
少年時代、画家を志すも大学に不合格、その後建築に興味を示すも第1次欧州大戦勃発。
ドイツ軍に志願して西部戦線を転戦、最終階級は伍長、最終叙勲一級鉄十字勲章。
戦後、ドイツの大恐慌時代に政治家としての頭角を現し、みるみるドイツを再建させナチス第1党と共に首相、大統領を兼ねた総統となる。戦争が無ければ彼は、有能な政治家として歴史に名を残しただろう。しかしながら、彼の反ユダヤ主義は苛烈なものであり、後世にまで多大な負債を残す事になる。
ドイツの生存圏(レーベンスラウム)を拡大するため、ポーランドとの武力衝突が第2次世界大戦を勃発させる。
米・英・ソ等連合軍と6年間を戦い抜いた後、帝都ベルリンで自決する。
自殺の直前に愛人のエヴァ・ブラウンと結婚。彼女の著書とされる日記には、以前にヒトラーの息子を出産したとも書かれており、物議を呼んだ。
見づらいが、下部に彼の直筆サインがある。
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ハインリヒ・ヒムラー
1900年〜1945年
ナチ党親衛隊(SS)全国指導者。ゲシュタポ長官。ユダヤ人絶滅政策責任者。
性格的には質素で繊細、夢想家。
彼の名付け親は、バイエルン・ビッテルスバッハ家のハインリヒ王子であるように、礼儀正しい良家の少年だった。
第1次大戦が勃発すると(14歳)、軍人として志願するが、前線に立つ前に終戦を迎える。
戦後レームに感銘を受け、彼の指揮下でナチスへ入党。徐々に頭角を現し、SS長官に上りつめる。
長いナイフの夜にて、かつての上司だったレームを粛清、ドイツ警察長官として、全警察組織を掌握、多くの政的、ユダヤ人を強制収容所に送った。
戦争後期、ヒトラーの徹底抗戦に反し、独自に終戦協定を模索するが時既に遅く、ヒトラーの死後、逃亡を企てたヒムラーを英軍が捕獲、青酸カリで服毒自殺する。
なお、彼はSSを騎士団と考えていたふしがあり、夢想めいた儀式を執り行ったりしている。
このサインはヒトラー著、わが闘争の表紙にヒムラーが献字入りでサインしたものである。写真はヒトラーでありヒムラーではない。 |
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エーリヒ・フォン・レヴィンスキー・ゲナント・フォン・マンシュタイン
1887〜1973
陸軍元帥、第2次世界大戦中、ドイツ軍最高の頭脳。
対フランス戦を4週間でやってのけた作戦立案者。
陸軍の名門、フォン・レヴィンスキー家の出身。
06年陸軍近衛連隊に配属、第1次大戦には大尉として従軍。
第2次大戦時には、南方軍集団参謀長、部下にとっては頼もしいが、反面、司令部や上官にとっては傲慢な性格を宿していたため、周囲の同僚からは殆ど嫌われ者だった。ロンメルと最初に会ったときは素っ裸で川を泳いでいたとか。
対フランス戦で、当初予定されていた「シェリーフェンプラン」の作戦を見送り、彼の立案したマンシュタインプランによって、ドイツは華々しい勝利を飾ったが、この案は参謀本部を通さずに直接ヒトラーに持ちこまれて採用された為、参謀本部との軋轢は相当なものだった。
43年、スターリングラードで孤立したパウルスの6軍救出に向かうが失敗、ハリコフでの撤退作戦では「バックハンドブロウ」と呼ばれる機動防御を行い赤軍を翻弄している。
44年に総統との作戦見解の相違により罷免され終戦。イギリス軍の捕虜となる。
眼病を患っていたため、相当苦労したらしいが、記憶力は常人以上であり、地理学などは得意だったらしい。
なお、グーデリアンとは同期である。 |
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ハインツ・グーデリアン
1884〜1954
陸軍上級大将、ドイツ戦車装甲部隊の生みの親。
電撃戦の創始者、通称「韋駄天ハインツ」。
ヴェルサイユ条約によって、軍備が縮小された中にあって、機械化装甲部隊の創設を唱え研究、戦術理論『戦車戦学校』を著するも全く受け入れられなかったが、これに感化されたヒトラーによって、一躍新設装甲部隊の指揮官に抜擢される。
勃発した第2次大戦緒戦で、第19軍司令官として、自らの理論、電撃戦を実証した。
対フランス戦では、突破不可能と言われたアルデンヌの森を抜け、フランス軍をダンケルクからドーヴァー海峡の向こうに追い落とし、鮮やかな勝利を演出。
ついで、対ソバルバロッサ作戦では、モスクワの手前で悪天候、冬将軍に行く手を阻まれ破竹の進撃が停止、ソ連軍の猛攻によって撤退を余儀なくされた。
ヒトラーによる罷免と復帰を繰り返し、参謀長として仕えるが、戦争末期のヒトラーの精神は不安定で、かなり怒鳴り散らされたようである。彼の怒号を聞きながら、傍らのビスマルクの肖像画が自分に「私の作り上げたドイツを、どうしようというのだ?」と語りかけてきた、などと回想録にも描かれている。
最後にヒトラーに罷免された後、終戦を迎えニュルンベルグ裁判を受ける。著書に「電撃戦」等が存在する。 |
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カール・デーニッツ
1891〜1980
海軍元帥、後ヒトラーの後継として2代ドイツ総統。
1910年ドイツ海軍に入隊、第1次大戦では潜水艦乗りとして活躍、35年に潜水艦隊司令官に任命される。
第2次大戦下、Uボートを率いた「ウルフパック」戦術を確立、連合軍の通商破壊を行うが、レーダーの登場、連合軍の対潜水艦戦によって、殆どのUボートは撃沈されている。
43年レーダー提督の罷免により、海軍総司令官に就任、元帥となる。
ヒトラーの指名により、彼の自決によって後継者として総統に就き、臨時内閣組閣時に集まってきたナチ関係者を全て排除、その中にはヒトラーに解任されたヒムラーも混じっていたと言う。
ソ連との戦闘区域からの西側脱出作戦を立案し、無条件降伏の時間を稼ぐと共に、連合軍と交渉。人的被害を食い止めたと言われている。
ニュルンベルグ裁判で10年間の禁固刑、シュパンダウ刑務所に収容された。 |
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アドルフ・ガーランド
1912〜1996
ドイツ空軍中将、撃墜王、ダイヤモンド剣付騎士十字章授与。
最終撃墜数104機、ドイツ軍エース順位94位。
戦後アルゼンチンで軍事顧問
スペイン市民戦争でドイツ空軍が『コンドル軍団』として参戦し、その時提出したレポートがもとで、対地攻撃部隊指揮官に転属させられそうになるが、リウマチやら何やらと仮病を使って、花形の戦闘機隊からの転属を回避。
上官リーベルに地上勤務(仮病が原因らしい)をさせられるが、彼に黙って出撃する事数回、フランス戦線でスコアを伸ばす。
40年JG26の司令官として赴任、同年戦闘機総監に就く。
テスト機の茶系迷彩を施したメッサーシュミットを乗り回していたら、スピットファイアと間違えられて撃墜されそうになったり、空軍総司令官ゲーリングと対立して免職されたりと、数々のエピソードを残す。
崩れ逝くドイツ空軍にて、最新鋭ジェット戦闘機隊JV44を指揮し(この戦闘団の大半は、ガーランドの呼びかけに応じて集まってきた騎士十字章受賞者のエースパイロットという、撃墜王達である)奮戦するが、努力空しく敗戦後、戦犯として5年間服役。著書に「始まりと終わり」がある。
彼の愛機にはミッキーマウスが描かれ、トレードマークは葉巻であるところが何とも言えないナイスガイである。 |
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マレーネ・ディートリヒ
本名 マリア・マグダレーネ(1901-1992)
第2次世界大戦をまたいで活躍した時代の『華』。
ベルリン、嘆きの天使、の成功で一躍有名女優となるも、第3帝国下のドイツを非難し、国を去ったままアメリカから戻らなかった。代表曲に「リリー マルレーン」があるが、これは彼女のカバー曲で、最初の歌手はラーレ・アンデルセンである。戦後裏切り者の汚名を背負いながらも、故郷ベルリンへ帰る日を夢見て、パリのアパートで一人暮しをしながら寂しく生涯を終える。戦中派のドイツ人は彼女の裏切りを決して許さなかった。
ベルリンの壁が崩れた夜、彼女はラジオ局に「私はまだベルリンにかばんをおいてある」という彼女が昔歌った古い町の歌をリクエストしながら涙を流したという伝説も残っている。「昔の想い出は全部そのかばんにあるの」と歌う彼女の気持ちはいかばかりのものだったのだろう。
良い悪いはともかくとして、彼女は今でも輝き続ける時代の華である。
彼女のドラマは今でも人々に語り継がれている。
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レニ・リーフェンシュタール
1902〜2003
ベルリン生まれ。
女優にして映画監督
マレーネ・ディートリヒと同時代を生きた、そして全く逆の人生を歩んだ時代を彩り咲き誇る『華』
女優として「死の銀嶺」に出演、数々の映画主演をこなし、32年に「青の光」を初監督。当時台頭しつつあったナチス・ドイツの宣伝相ゲッベルスに引き抜かれ、激動の渦の中に身を委ねる。
プロパガンダ作品として評価の高い「意思の勝利」、ベルリンオリンピックの記録映画「民族の祭典」等を撮影し、これにより彼女はベネチア国際映画賞の金熊賞を受賞している。彼女の絶頂の瞬間である。
しかし、ドイツ敗戦と共に彼女の人生は暗転、ナチス協力者として拘留の後、彼女の数々の作品も政治宣伝映画と酷評されることとなる。弁明の機会も与えられず、映画の表舞台から抹殺、しかし彼女は後々までも自分の作品を芸術であると主張しつづけた。
時代に消えたかに思われた彼女が再び表舞台に立つのは、約30年後の70歳代になってからである。写真家として見事に復活、100歳になっても海中のドキュメンタリー、「原色の海」を発表するなど、魂の燃え尽きる瞬間に突如として昔の輝きを取り戻した。
どんなに歴史に翻弄されようとも、どんなに生き方を批判されようとも、自分の作品達を決して裏切ることは無かった。それはゆるぎない信念のようでもある。ミュンヘンの自宅でガンの手術の静養中ひっそりと息を引き取った。
彼女の魂は、再び懐しい昔の友人達と再開を果たし、永遠の安らぎを得たに違いない。享年101歳。
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14歳で参加した1976年のモントリオール五輪で、五輪史上初めての10点満点を出し、個人総合で金メダル3個、銀メダル1個、銅メダル1個を獲得した白い妖精。
あるロシアの映画のヒロインである、ナジェダ(Nadezhda:「希望」という意味)にちなんで名づけられたらしい。
彼女の人生もまたアニメに負けず劣らずのドラマである。そう、一言で言えば独裁者に翻弄された少女であった。
当時、ルーマニアは東欧の社会主義諸国の中でも異色で、独裁者チャウシェスクが統治していた。そんな中、彼女の活躍によってルーマニアの名は世界に轟き、チャウシェスクは凱旋したコマネチに自ら勲章を授け、家を与え、国民的英雄として特権階級の扱いをした。
しかしその二年後、彼女は衝動的に漂白剤を飲んで自殺を計る。真意は彼女にしか解らない。
その後の1980年モスクワ五輪、個人総合では金を逃したが、金メダル2個、銀メダル2個の堂々の復活を果たしつつ引退を決意。わずか19歳の時だった。
さらにその9年後、彼女は国を捨てる決意をするのだが、亡命先のハンガリー側の警察に逮捕。あわやという処でそこを脱走し、2日後にオーストリアとの国境を突破、ウィーンのアメリカ大使館に駆け込んで亡命を果たすのだ。根性である。
それはチャウシェスク政権崩壊の1ヶ月前であった。
その後、民主化したルーマニアに、「犯罪者」と呼ばれる事さえ覚悟しながらも、コマネチは帰国した。国民は、あたたかく彼女を迎え入れたと言う。
波瀾に満ちた半生を振り返り、彼女はこう語った。
「体操は私にすべてを与えてくれました。名声も経験も、そして強さも。生きていくための強さを教えてくれました。体操そのものが私の人生です。これまでの人生に後悔はしていません」 |
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1880年−1964年
アメリカ陸軍元帥にして連合国軍最高司令官(SCAP)として解任される1951年まで日本の占領統治を行った(GHQ)
トレードマークはサングラスとコーンパイプ。「老兵は死なず ただ消え去るのみ」は名言。
サインには
Douglas MacArthur
tokyo 1947
と記されている。 |
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山本五十六
明治17年〜昭和18年 新潟県出身
昭和15年海軍大将、連合艦隊司令長官
昭和18年海軍元帥(戦死の後国葬)叙正三位、大勲位授菊花大綬章
日本海軍において名将として誉れ高い。
日露戦争で日進乗員として出征、重傷を負い指を失い、後に米国駐在武官を経て、ロンドン軍縮会議全権委員を務める。海軍の左派として日独伊三国軍事同盟締結阻止、対米開戦回避に尽力。その為に右翼勢力により命の危険に晒され、連合艦隊司令長官に転任する。
対米開戦初戦では真珠湾攻撃を計画し、華々しい大戦果を挙げるも、ミッドウェー海戦では暗号の解読から空母4隻を失う大敗北を喫し、この海戦の後、日本軍は守勢に立たされ次第に敗色を増してゆく。
「い号作戦」でラバウルに将旗を挙げ、航空機による敵戦力削減を目指すも戦果は乏しく、ジリ貧の消耗戦を強いられ、18年4月18日、前線視察中に米軍機の待ち伏せを受けてブーゲンビル島上空で撃墜、戦死を遂げる。
国を挙げての国葬の後、元帥に列せられた。
大艦巨砲主義に固執する海軍にあって航空主兵の重要性に逸早く着目し、空母の集中投入を発案、戦艦対戦艦の戦闘方式を一新した。近衛文麿首相に対米戦の見通しを聞かれ、一年は暴れてみせるが、二年三年となると確信は無い。と答えたといわれ、対米戦の回避に望みを託したとも言われている。
この葉書は、彼が海軍次官時代に書かれたものと思われ、下の名刺は海軍大将と書き直されていることから、日米開戦直後に送られたものと思われる。裏書から推測するに、激励やファンレターに対するお礼状として、山本夫人が不要となった名刺を送ったと思われる。
因みに、ボールペン書きは夫人の筆跡による。 |
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南雲忠一
1887〜1944
海軍大将(海兵36期生)
太平洋戦争開戦当初、第1航空艦隊司令長官として、ハワイの真珠湾攻撃の指揮を採るが、当時神経衰弱気味と言われ、成功裏に終わった奇襲の第2次攻撃をせずに勝機を逃がす。
インド洋、ミッドウェー、ガタルカナルと転戦し、南太平洋海戦後、日本に戻り佐世保鎮守府司令長官になる。
後、中部太平洋方面司令長官として、サイパン島に司令部を置くが、アメリカ軍への抵抗空しく昭和19年7月8日自決。
サイパン守備隊は壮烈なる玉砕(バンザイ突撃)を遂げた。
彼の評価は分かれるところであり、アメリカなどで名将とされる反面、日本では凡将のとの評価を受けている。
特にミッドウェー海戦では、山口多聞少将の意見に耳を貸さず、攻撃隊の発進に躊躇したため、敗北を喫したと言われる。 |
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坂井三郎
1919〜2001
日本海軍中尉、撃墜王、最終撃墜数64機。
ラバウル海軍航空隊(台南空)所属、通称大空のサムライ
17歳で佐世保海兵団四等水兵として勤務。
昭和12年に霞ヶ浦航空隊を主席で卒業、恩賜の銀時計を授与されている。
昭和13年日中戦争でイ−16を撃墜し、華々しく初陣を飾る。
太平洋戦争3日めにして、空の要塞と称されるB−17を初めて撃墜したのも坂井である。
その後、ポートモレスビー、ラバウル、硫黄島等でスコアを伸ばし、内地にて終戦を迎える。
彼は努力家であり、目や体を鍛える事を欠かさなかったため、昼でも星が見えたと言われている。そのせいか大戦末期、15機のF6Fに狙われても見事逃げ切った経験がある不穣不屈の人でもある。 |
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1922年〜
日本陸軍少尉、情報将校。
陸軍中野学校二俣分校卒。フィリピンのルバング島で太平洋戦争終結後29年間、持久戦を続けた日本軍最後の軍人。
1942年、上海にて召集を受け、陸軍予備士官学校から陸軍中の学校を卒業、情報将校として44年、フィリピンのルバング島へ着任。ゲリラ戦を主張するが、現地日本兵軍は米軍と正面決戦を挑んで破れ、その後友軍のフィリピン奪還を信じてゲリラ戦を展開。
終戦を迎えても武装解除命令が届かなかったために、密林ゲリラ戦を継続し、情報収集と米軍施設への反復攻撃を29年間も続ける事となった。
小野田少尉は日本は占領されたが、満州に日本の政権があると信じ、ベトナム戦争が太平洋戦争の継続だと考えていた。
やがて一人の日本人青年、鈴木紀夫によって、祖国日本への道が敷かれ、フィリピンで武装解除に応じて彼の戦争は終わった。1974年のことである。
戦後の左派メディアの中傷や、批判に対しても凛とした態度を貫いていた小野田だが、繁栄する日本の中で、変ってゆく人々の心に馴染めず、やがてブラジルに移住を決心。現在もその地で牧場経営をしている。帰国してから日本で生活した期間は1年間にも満たなかった。
戦後の日本が失ったもの。それを小野田は持っていた。果たして、彼はどんな日本の姿を描き、戦い続けたのだろうか。 |
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明9年〜昭35年 陸軍中将(予備)
第12期陸士卒、24期陸大卒。
所謂南京攻略戦時における主要戦力である中支那方面軍(第10軍)第18師団長。
昭和10年に予備役となるも、支那事変が起こると12年に召集、中支那方面軍第18師団長として戦闘序列に編入、第2次上海事変の増援部隊を率いて中国軍の背後より攻撃を敢行、後に第10軍は独断で制令線を越え南京攻略戦を行い、その地で治安維持に当たる。
13年に牛島中将は召集解除されている。 |
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