
魔術理論と考察
魔術体系の実践的思索について
この魔術理論は、旧来したためられてきた多数の魔術文献を、独自に解釈し、再構築したも
ので、違う視点から魔術の形態を提示するものである。いわゆる魔道書や入門書を紐解いて
見て、「梅干を見て、唾液が出る」様な効果を魔術に期待するにはいささか無理があるように
思える昨今の魔術理論とは一線を画すものである。
人の心には、一定のベクトルがかかっていると仮定することから始めなければならない。好みや性格がベクトルによって形成されるものであるが、いかに有効に洗脳、若しくはマインドコントロールによってこのベクトル、流動的想念に変化を与えられるかを考えれば良い。別な言い方をすれば、放ったと同時に相手に精神的打撃を与え、いつまでも束縛し続けられうる力を持った言葉を、適切な場所、適切な時間、適切な強さで、与えられるかに尽きる。心理学で言うトラウマ(精神的外傷)を利用する。この辺の考え方をを突き詰めると、権謀術の範疇に重なるものとなる。
*20世紀最大の魔術師、黄金の夜明け団のアレイスタークロウリーによれば、「魔術とは科学」であり、「空気の振動を適切な場所、適切な時間に行えば、大戦争をも起こすことが可能である」と言っている。
これは《空気の振動=言葉》であり、国家元首が敵対国家に対して、適切なタイミングに宣戦布告するという、只それだけの意味なのだ。
精神への介入の為に研究すべき事項は自然現象を伴う。場所や時間によって言葉の重さが変化するのは周知の事実であり、例えば、明るい大草原で「殺してやる!」と叫ぶのと、暗い密閉空間で同様に叫ぶのとでは、与える恐怖が全然違う。
この点を魔術では四大元素で位置付けているようだが、状況判断能力を養う意味で、この象徴を覚えることには意味がある。
火、水、風、土、の四大元素の影響で、(例えば夕刻や炎を見て、山の上や海上で)人の心がどう影響し、どう変化するかは独自の研究と体験が必要となる。喉が乾いている人に水を与えるとき、彼は無理な注文にも応えようとするだろうし、闇に光無くば、旅人は光を持つものの導きに頼らざるを得ないだろう。象徴とはそのカリキュラムのような物であり、直感とインスピレーションを鋭くするための儀式なのだ。
*よく、土地の霊と相性の悪い魔術の存在を耳にするが、これは四大元素の要素が反映される事が大きい。例えるなら、海中でマッチを擦るようなもので、うまくゆくはずが無いのだ。
*同様に、土地感を持たないものが、その土地の風土的文化や気候を知らずして、現地人の心を推し量ろうとしても、うまくゆくはずが無い。土地に根ざした感がつかめないからである。
*言いかえれば、キリスト教を知らない日本人には、キリスト文化が根底に流れる西洋人の心は読めないのだ。塩を知るには塩を舐めなければ決して解からない。
魔術的に言えば、日本人と西洋人では、異なった霊によって守られているために、日本で通用する術式が西洋では通用しないと言うことになる。
樹を見て、傷の成長や、茂り具合から多くの情報がもたらされる。樹と話しをすると言うのはこういうことなのである。遺伝の法則を発見したメンデルも、豆にその事実を教わったのだ。会話と言っても人の言葉がここでは媒介になることはない。知りたければ、草や樹の言葉を習わなければ決してわからない。
彼らは考えて、語るのではなく、現象としてのみ体が会話をするので、それは他の多くの物に共通する言語なのである。
*石と語ると彫刻家はいう。フィレンツェの街は建物によって歴史を語っている。積み木を変な積み上げ方をすれば、自然はその積み方を嫌がって壊そうとする。語ると言うのはその一連の法則を見出すことにある。この努力をせずして、自然の精霊と語ることはできない。
四大元素に宿る精霊を見方につけるというのは、このような事を踏まえて、好条件かに自分を置くということなのだ。
*一昔前、日本が米不足になってタイ米を緊急輸入したことがあった。タイ米の不評さがマスコミに騒がれ始めたとき、公園に捨てられたタイ米が見つかって、大きな反響を呼んだ。それによって、
タイ米=まずい
という公式が定着したと感じたのは私だけではあるまい。捨てるならこっそり山中にでも捨てれば良いものを、わざわざ目立つように公園に捨てたのは確信犯ではないだろうかと思ったものである。偶然マスコミが心無い人の仕業として放送したのであろうが、もし、この効果を狙っての演出であったとしたら、その人物は相当の使い手である。たったあれだけの行動で、日本の世論に影響を与えてしまったのだ。(タイ米や日本米の価格にも相当影響が出たはずである。)確信犯だとすると、犯人は誰で、誰が一番利益を得たのか?それともマスコミお得意の自作自演だったのだろうか。
又、好条件が揃いすぎ、自分の思惑を超えて言葉が一人歩きしてしまう例もある。よく話題が大きくなりすぎて大騒ぎをした挙句、話題をまいた張本人が実は嘘だったと告白して謝罪している記事を目にする。あまりにも世間が欲する内容にかち合ってしまったために、収拾がつかなくなって暴走してしまったものだ。
世論操作や、集団催眠など、方策は多々あれど、この制御は未だ持って不完全である。
人は自分の名前を呼ばれると条件反射的に呼ばれたほうを振り向いてしまうことがある。平安時代に活躍した安部晴明の「呪」とは、この様な類のものではなかったかと思う。伝説の式神や反魂の法などは私に知る由もないが、彼も言葉の力を評価していたのは事実だろう。
流動的想念に話を戻すと、客観的に自分を考えて、運が落ちてると考えるか、上がっていると考えるかで自己の未来に深い影響を与える事になる。何かのアクションを起こさない限り、落ちると思っていればもっと落ちるだろう。従って、自分の心を操る方法を見つけるところから始めるべきだろう。それを相手に応用すれば良い。
『自分の心に光の旗を掲げる』
と形容するこの行為は、黄金の夜明け魔法体系の中でも最初に行うものとして採り入れられている。
*世界が調和して美しいと言う人がいた。次の日に事故に遭って半身不髄になり、世界が絶望に変わった。
然し、この場合、変わったのは世界ではなく、その人の心だけなのだ。
人の世に価値を見出そうと思うなら、まず自分の価値を問うべきだろう。
精神の状況を演出できたとしても、本人がどう動くかで物事は決まる。あくまで物事を客観的に知ることを目的とする為に、自己決定の段階で本人の意思が全てを決する。
*人は暗闇で全力疾走出来ない。目先の恐怖を知るからである。一つでも光を灯せばそれを道標となす事ができる。
つまり
魔術式=自然の助力を基本とした精神的、物理的操作
と私は定義する。
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