
魔術理論と考察
魔術体系の実践的思索について
この魔術理論は、旧来したためられてきた多数の魔術文献を、独自に解釈し、再構築したも
ので、違う視点から魔術の形態を提示するものである。いわゆる魔道書や入門書を紐解いて
見て、「梅干を見て、唾液が出る」様な効果を魔術に期待するにはいささか無理があるように
思える昨今の魔術理論とは一線を画すものである。
予知、予測について
一般に「勘」と呼ばれるものには2種類のタイプが存在する。
単にサイコロの振り目を当てる様な「勘」と、何故かわからないけど、相手の行動に不審を持ったときに感じるような「勘」である。
前者は、偶然を予測する試みであり、ESPカードなどで実験される予知能力を調査する試みであろうが、より重要なのは後者の方である。
事が対人関係にある場合、そこには何らかの原因からなる必然の結果が必ず存在するものである。つまり予知とは、原因から帰結される必然的結果を予測することにあり、例えるなら、落した卵が、床で割れると判断するようなものなのである。(但し、どれくらいの状況で割れるものかを推測するには、予め落す位置や床の傾斜などの情報が必要)
従って実用を考えた場合、ギャンブルで財をなした予知能力者がいない以上、後者の予知能力を伸ばすことこそ、有意義だと思われる。
*推理の方法にも2種類が存在する。演繹的推理法と帰納的推理法である。
演繹的推理とは、犯人を最初に推理特定し、状況証拠を裏付ける方法で、刑事コロンボなどが良く使う方法である。
帰納的推理とは、あらゆる可能性を思考実験して可能性を消去し、残った可能性を実証する方法で、シャーロックホームズが得意とする方法である。演繹的推理はダイレクトな方法であるが、間違いを犯す可能性が比較的高く、帰納的推理は間違いを犯す可能性こそ低いが、データを充分に収集しなければ、犯人には行きつかず、なおかつ時間のかかる方法である。
*予知、予測とは、科学でなければ意味が無い。水晶玉やカードが未来を指し示すなどと考えない事である。例えるなら、博物学者が、歯の化石を見つけて、これは何歳くらいの何の動物で、どのくらいの大きさであるかを頭の中で推理、判断し、全体像を組み立ててしまう様な感覚である。
*昔、「スターシップトゥルーパーズ」を映画館に見に行ったのだが、その中でトランプ当てのシーンがあり、私は「クラブのジャックかスペードのA」と言って的中させたことがある。一緒に行ったMは「なんでわかった?」といっていたが、映画は確定された時間軸をなぞるもので、偶然性のはいる余地の無いものであり、従って、監督の趣向及び作品の様式美から、その2つ位しか選択肢は無かったのだ。そんなものなのだ。
訓練を行う場合、物語の結末を予測したり、1分先の自分の未来などでイメージトレーニングすることが効果的だと思われる。これを10分、1時間と伸ばして、現在の状況からどう変化したのかを読み、外れた場合はどのようなファクターが原因となったのかを考察する。
洞察と推理は、「あの人ならこう出れば、こう返ってくるだろう」という予測の繰り返しの中から育まれるものである。原因から見れば、他人の未来も予知可能となる。
*銀行員にKと言う男がいた。同じ銀行で働いている女性と付き合っていたが、対人関係でKがやめてしまったため、金の切れ目が縁の切れ目で、もうすぐ別れることになるだろうと言った私に対してMは、「そうとも限らないさ」と言っていた。その後、ぷー太郎生活に愛想を尽かし、やっぱり別れる羽目になったのだが、仲の良かったMよりも私の推測の方が正確だったのだ。ここには願望を反映させるような内容が全く介在しない。自らの努力を怠った以上は、然るべき結論に達したと言わざるを得ない。
カード占いへの備忘録
能力の個人差は確かに存在するものである。タロットやトランプに頼るのはナンセンスな事と、この内容から感じるかも知れないが、この材料は相手の視覚的に直接働きかける暗示の効果という意味をもつ。より強い暗示をかけられる材料があれば、このような道具を使用する必要はない。プラシーボは効果があろうとなかろうと、あくまで偽薬である。この点を考慮した場合、相手を介在した予知と介在しない予知では若干、方法に変化を加えても差し支えはないだろう。決してカードが、未来を予知すると考えて、これに頼ってはならない。相手のイメージをカードに重ねて無意識の中で働きかける勘を、カードの象徴の中から読み解こうとする試みは解からないでもないが、どちらにしろ必要となるのは相手を観察する能力なのである。
以下、私の考を元にして、カードのあり方を考えて見る事とする。
儀式、様式としてのカードであることをまず、前提とする。これはキリスト教のミサや、禅のような精神に作用させるセレモニーなのだ。
現在広く行われている占いのように、裏返したカードを無作為に抽出、並べて象徴を読み解こうとする行為は、術者のサイコロの目を当てるような直感にのみ依存するため、状況を熟知する相手となる対象者の意思を全く介在しない。術者は日常で経験して習得した象徴を、訓練通り伝えるのみで、相手となる対象者は枠外に置かれてしまっている。この様に、第三者としての意思を交えずに独自のインスピレーションにのみ頼るのは、対象者のデータを収集する上では、不適当な行為と言わざるを得ない。例えば、名前や誕生日のみを手がかりに占いを行ったとしても、何の意味も持たないのだ。占星術は、ペストの発生さえもネズミを媒介とせず、月の運行に原因を見出すものだ。なおかつ、明治に書かれた日本の「神術霊妙秘伝書」なる書物には、ビタミン不足から生じるはずの脚気を治すお札の作成まで記されていたりする。全く見当違いだと言うことである。
有効なカードの使用法とは、カードに表されている象徴を理解し、対象者のデータを引き出しつつ、カードを当てはめながら、現況を巧みに整理するような方法である。
この時、術者は心理学のカウンセラーでなければならない
従って、カード自体を、象徴として意味付けしたカテゴリーと、無意味な模様のカテゴリーに分けて、ロールシャッハテストの方式を採用して、対象者の現在置かれている状況と精神の二面を捉えて、占いを行わなければ正確な判断は不可能である。
これを行うためには、カード自体を作りかえる必要がある。どうやら、タロットカード占いは、事の現象全てを必然と考える傾向があるらしく、選んだカードも引かれたことを必然の結果と考える。科学では、現象があって結果が生まれると考えるもので、対象者が、数回カードを引いて、それが全てバラバラになる以上、ランダムなものと見なさざるを得ない。何度占おうと同一のカードが出ない以上、カードは何も語っていないと見るべきであろう。
あくまでの、私の考えるカード占いの方法は、対象者の状況を見つめるために、置かれた現状を示すカードを選び出し並べることで、合理的解釈をするための相関図を作成することにある。
儀式としての西洋魔術の方法は、日本人の根底にキリスト教が存在しない以上、その教義に則ったものであっても理解されない。カバラを知らないものにセフィロートを説いても理解できないし、只の自己満足である。万人のため(日本人に限る)にはこのような知識に依存する物は全て、取り払う必要があるだろう。所詮、日本人には、かつての仏教がそうであったように、キリスト教も東洋的に解釈されてしか伝わらない。よって日本では、神を介在しない(八百万の)精霊という単語を根底に決めることが、一番理に叶うものだと考えるものである。
精霊=日本人の根底に眠るアイデンティティー
と仮定すれば理解し易いだろうか。
この精霊魔術を考えるとき、人の作ったもの、加工したものはその対象とならない。例えば剣とか金とか杯などは人の作った象徴である。そこには精霊は宿らない。自然界に存在するものをカードの象徴とする為に、原始宗教にその根拠を求めて設定を行い、各地に共通するキーワードをカードに取り込むことにする。(然し、都市に生活基盤を置く場合では、自然は歪められ、その象徴より、人工物を若干認めざる得ない。)
曰く、基本となる四大元素として
火、水、風、土
天体として
日、月、星、惑星、時、闇、・・・・
状況として
愛、迷、喜、怒、哀、楽、大、小、静、速、沈・・・・
象徴として
ロールシャッハカード各種
(因みに、太陽の運行も朝と夕刻では人に与える影響は違う。晴れたり雨だったりする力場の変化によって、人の心は複雑に絡み合う。)
等々、カードは必要に応じて、自分の状況を整理しやすいように、色々と増やしたり減じたり取捨選択を行うものである。自分を信じて増減させることで、自分の性格に会った独自のカードを作って行く。これは人全てが同じ方法でなければ理解できないと言うことでは全く無い。数枚のカードで全てを知る人もいるだろうし、数百枚のカードを作らなければならない人もいるだろう。
人の心は金庫の鍵番号と同様一人一人が違い、千差万別の組み合わせがある。1人に解除できる鍵であっても、それが他の人にも合うものとは限らない。
四大元素には土着性が存在する。土の味、水の味、火の味、そして匂い、全てが異なり影響し合っている。都会のエアコンで加工された風や、遠く海外から運ばれたペットボトルの水しか知らないようでは、これら元素の精霊を知ることは出来ない。土着性が全く無く、相性が悪いのだ。例え自然を愛すると口で言っても、窓を締め切ってエアコンをかける偽の自然主義者には彼らの声は聞こえない。環境を壊す人物が好まれるはずが無い。大地の熱や湿気と匂いや音を教えてくれる風を知ることである。アスファルトは土ではない。土は生命同様に変化する。風は暑い寒いに関係無く、人にまとわりついて吹き去って行く。彼らを知れば、自分を守護し、いつでも力を貸してくれるだろう。(例えば、土を知るには、生命を育んで見ることだ。)
ここでの考え方は、精霊を従えるのではなく、彼らと遊ぶことにある。カード自体には精霊は宿らない。精霊を感じることで、選ぶに過ぎない。人の周囲を見渡せば、精霊はそこかしこに宿っていると古人は考えている。人為的に加工された元素、精霊はその性格を一変する。極端に変わるのが匂いである。一度有害なものを取り込んでしまうと、人に危害を及ぼす危険な存在となる。
彼らと話をするこで、その特性を充分理解することだ。(人の言葉を媒介とした会話ではない。念のため。)
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