
魔術理論と考察
魔術体系の実践的思索について
この魔術理論は、旧来したためられてきた多数の魔術文献を、独自に解釈し、再構築したも
ので、違う視点から魔術の形態を提示するものである。いわゆる魔道書や入門書を紐解いて
見て、「梅干を見て、唾液が出る」様な効果を魔術に期待するにはいささか無理があるように
思える昨今の魔術理論とは一線を画すものである。
日本は春夏秋冬に合わせて様々にその姿が変化する。各四季折々に風、水、土、火の特性が変容して行く。その街で生活して行く人にとって、これらの現象を肌で感じ、実感することで、その土地の特性を知り、生活様式に溶けこんで行く。他人の目から見て、「よそ者」と思われている様な状態では、その街を知ったことにはならない。事に魔術には土着性が存在するので、違和感の存在は重要なことである。他人の町では心は癒せない。
望ましい精霊魔術士の像は、アメリカン・インディアンのシャーマン達に学ばなければならない。彼等の懐は深い。彼らの教えはグレートスピリッツの元で調和しており、その死生観は禅に近い。
変わり行く星を見て、太陽に暖められた大地の温度を感じ、移り行く草木を知り自然を学べば、多くの見えないスピリットを見ることが出来るようになるだろう。
天体の位置から暦を知ったり、草木から薬や食料を得るなど学ぶ事は沢山ある。現にシャーマンは暦であれ、薬であれ、その自然から与えられた哲学と共に、良く知り尽くしている。
*彼らは言う、「宇宙の流れの中で、自分の位置を知っている者は死を少しも恐れない。」じつに堂々とした人生ではないだろうか。「今日は死ぬにもってこいの日」と言い切るのだ。大自然の中で、自分の役目を全うした、悟りを開いた者の境地だろうか。
風土と言うものには、その場その場にリズムのようなものが存在する。口調や方言もその一つだが、都市と田舎では流れる時間も違う。人工時間と自然時間と形容すべきだろうか。
*都市は眠らない。草木もいらない。人間と言う生命体で溢れているが、生命の多様性はない。土も風も水さえも人工物で、本来の姿は歪められている。都市には都市に則した別の体系が必要だろう。
リズムは体で覚えるしかない。日本の南北では更に大きなリズムの違いがある。桜の咲く時期や、雪の降る時期さえ異なる。人の生活は更に職業によって異なる。
同様に、精霊魔術も土地のリズムに則った術式が必要となる。鳥の渡りや、虫の行動、蝉の鳴き声の変化に季節の変り目を知ったり、という感性の研ぎ澄ましが大切なのだ。
*その土地を知るからこそ出来る事もある。例えば、元、病院であった土地を知っていたからこそ、夜に「ここ、昔病院だったけど、出るって、聞いてない?」と暗示をかけると、それまで平気だったにも拘わらず、「やめてくれ、やたらリアルで、洒落になんねー」と勝手に相手はイメージを広げて行く。
*イギリス貴族は、たしなみとして、庭の草木の名を皆知っている。庭の草を見て、「雑草」としか答えられないようでは失格である。彼らは本物と成金をこういうところで見分ける。
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